2015年2月20日金曜日

ダイヤモンドリングより価値のあるもの

大勢の方が
シーナへの哀悼を読んでくださっていることに驚く。


音楽の話題はほとんどSNSになってしまったため
ほとんど日常のあれこれを
自分の修練の意味もあって書いている場所なのだから。


でも鮎川さんにあのようにお声がけいただいたこともある。
言葉を生業とする者として
改めてしっかり書いていこうと思う。


昨日なんとなくYahooニュースを眺めていたら
シーナのお通夜の様子を知らせる写真に
私が写っていて驚いた。
鮎川さんと握手している写真。
まさにあのブログの話をしているところだ。

鮎川さんの目がやさしい。

とにかくしっかりやっていこう。

◆ダイヤモンドよりブルースというタイトル

ご存じない方のために
「ダイヤモンドリングよりブルース」は
ブルース&ソウル・レコーズ誌に掲載されている
私の連載のタイトルである。

日本のブルースの歩みを書きたいが
インタビューを掲載していたら何年あっても時間が足りない
と申し出た私に太っ腹な編集長は、

せのおさん自身のことを書けば歴史になるんじゃないですか

と言ったのだ。

それ以来、お言葉に甘え、小学校から今までのことを
時折、インタビューや取材記事も交えながらずっと書いている。

私がブルースという音楽に出会ったのは、中学校1年生の時だ。

それ以来、実に40年近くブルースはそばにいた。

というより、ブルースやロック、フォークという音楽の傍にいたくて
進む方向を選んできた。
進学も恋愛もはたまた離婚も。

タイトルを決めるとき、それを映すものにしようと考えた。

ブルースでは、オマエにダイヤモンドリングも車も買ってやったのに
なんてつれないヤツなんだという
そんな言い回しがよく使われる。

そうか。

結局、私はダイヤモンドリングという幸福より
ブルースを選んできたのか。

いや、もちろんいただけるものなら頂きます。
宝石、マンション、クルマ、現金。なんだって。

でも、音楽。特にライブという現場の近くにはいたい。

シーナは温かい家族に恵まれたけど
やっぱりどこか似たようなところがあったのではないだろうか。

金子マリさんが、2人目の子どもが産まれたとき
もう歌うのを辞めなさいと言われたこともあったのよと
『ジロキチ・オン・マイ・マインド』のインタビューで語っていらしたが
それも少し似ている。

確固たるものを持っていたとしても
女性の人生は、男性や家庭に左右されるところが大きい。

その中でどう音楽に関わっていくのか。

好きなことをやればいいじゃない、では済まされない。

これは男性主導の音楽の世界では
なかなかわかってもらえない思いかもしれない。




2015年2月19日木曜日

さようなら、シーナ②

会場に入る手前にはテントがあり、写真と焼香台があった。

現実が近づいてきているようで、少し緊張した。

「こちらはお時間の無い方のためのお焼香の場所です。
中でお焼香できますので、そのままお進みください」

係の男性が声をあげる。

暗闇からやってきたせいもあるのだろう。
式場の煌々と照らすライトがまぶしい。

大勢の人が行き交っている。

ここはステージなのだ。

粛々と続いていた列は、式場が近づくにつれ
少しずつばらけていった。

事前に供花した人たちの名前が受け付けのあるフロアにまで
あふれている。

今回は、2005年ハリケーン・カトリーナ支援ライブにゲストで
来てくださったお礼もこめ、ブルース婦人部 homesick recordとして
お花を贈らせていただいている。

だが素早く目を走らせても、どこにあるのか見つからない。

そのうち列は、シーナの歌声が流れる式場に吸い込まれていった。




部屋は前室と、祭壇のある部屋に分かれている。

人の頭の向こうにシナロケの青い旗?が見える。

女性の絶叫に近い声が聞こえる。

いやだなぁと思った。絶叫がいやなのではなく、
そこに行きたくないと思った。

スマホを取り出して写真に収める人、
手を合わせた後、折りたたみ椅子に座り込む人などもいて
祭壇のある部屋はごった返していた。

何列になっているのかわからないが
そのまま進んだ。

供花の札に思いがけず、もう閉店したブルース喫茶の名前を見つける。
会社名でなく、個人名で送られている方もいる。
それぞれがシーナと過ごした時間を思い
形だけではない、哀悼の意を示している。

赤い花で彩られた祭壇の前はますますごった返していた。
後ろにいた男性が泣き始めた。

手を伸ばして、なんとかお焼香を済ませる。

シーナがいつもふっていたタンバリンを指し
触ってもいいですか、とお嬢さんに尋ねる女性もいた。




棺の窓があいている。

少し高いところに置かれていたので
私は少し背伸びをして、のぞきこみ、私は少し身体を堅くした。

目に映ったシーナは透きとおるように美しかった。

赤い口紅。黒い髪。白い肌。

もう一度目に焼き付けたくて、もう一度、背伸びをした。

白い布団にウェーブのかかった黒い髪が
まさに波のように広がっていた。

堅く閉じた目には、つけまつげもしていたようだ。

なぜ目を開かないのだろうと思えた。

シーナ。

呼びかけても笑い返してくれないだけで
いつもよりもっと美しかった。

相当苦しい思いをされていただろうに
いくら覚悟を決めても、未練もあるだろうに
安らかな顔を見ることができたのは、よかった。


お疲れであろう鮎川さんが、立って一人ひとりに挨拶をされている。

いやだなぁと思った。
なんて声をかけたらいいのかわからなかったのだ。

順番が来たので挨拶をすると
手を握って
「せのおさん、掃除機のブログを今日読みました。ありがとう。
マリちゃんとせのおさんのが、心に残りました」
と思いがけない言葉をいただいた。

その瞬間、知らずと涙があふれた。

こんな時に、なんて、あったかい人なんだ。

私の手が冷たすぎるのか
鮎川さんの手が温かいのか。

葬儀が終わると寂しさもひとしおだろう。
ぜひお身体を大事にしていただきたい。

涙のまま表にでると、その金子マリさんがいらしたので
場違いな気もしたが、ジロキチの本のお礼をし
寂しくなります、とご挨拶した。

マリさんは「本当にねえ」と言うと
すぐに「お焼香はお済みですか」と
弔問客に声をかけていた。

金子総本店の人として
そこにいるのだから
ごくごく、あたりまえなのだ。

でも、あのブログを読んでいたから
その飄々とした仕事ぶりに
逆にぐっとくるものがあった。



一夜明けて、今日は青い空。

あの黒い豊かな髪と真っ赤な口紅が似合うシーナの
肉体は、悲しいけれど灰になって空に上っていったのだろう。

でも、私は忘れない。

みんなも忘れない。

何千人もの心の中で、シーナは呼吸している。

生きるとは、
他の誰かの中で息をすることなのかもしれない。

たくさんの人に送られたシーナと
鮎川さんの誰一人ないがしろにしない心に触れ、そう思った。









さようなら、シーナ①

夕方5時が近づいていた。
シーナのお通夜が始まる時間だ。

仕事の手をとめ、窓の外を見る。
雨は降っているが、どうやら雪にはならないらしい。

何を着ていこうか。
やはり喪服だろうか。
さんざん迷って、黒のセーターにグレーのワンピース。
その上に黒いジャケットを羽織った。

下北沢の式場までは歩いてゆく。

いつもの道が、寂しい道に変わる。

昨年の秋も、こうして藤井裕さんのお通夜に向かったことを思い出す。



式場の手前で、関係者の方はお進みください。
ファンの方はこちらにお並びください、と係の男性が誘導していた。

ちょっと迷ったが、素直にファンの列に並ぶ。

列は式場の隣の駐車場に、つづら折で4列。

会社の帰りなのか、鮮やかなマフラーの人、シックなコートの人もぽつぽつ。
あとは黒い服と傘が並ぶ。

雨がばらばらと音をたてて傘に落ち
時に強く冷たい風が吹き付ける。
駐車場のライトが
雨粒を映し出している。
ほのかにお香の匂いがする。

いまどきはこんな時は、スマホをいじるのが常なのだろうが
傘で手がふさがっていることもあってか、ほとんどの人はじっと前を向いて並んでいる。

その時間は、一人で来ている人がほとんどだったため
誘導する声と、雨の音だけが聞こえている。

事務所のスタッフの方なのだろうか。
誘導する男性の案内を持つ手が震えていた。
最初は、「ファン参列」という紙が風に揺れているのだと思ったのだが
どうもそうではないらしい。

誰かが携帯カイロを渡そうとすると
「ありがとうございます。先ほどから頂いてポケットがぱんぱんなんです」
と、震えていた男性は丁寧に頭を下げた。



つづら折りが少しずつ進み、また止まる。

忘れた頃にまた進み、また止まる。

W.C.カラスの歌う「One Kind Faver」が頭をよぎる。

 黒いリムジンの後にバスが続く。
 長い長い列が続く。後から後から続く列。
 風向きは悪いままさ。

雨に濡れ、ついに冷たくなってきた手をこすりながら
ブラインド・レモン・ジェファースンは凍えて死んだんだったなぁと
脈絡もなく考える。

シーナに、ブルースのどんなところが好きなのか
お話を聞くべきだったと、後悔する。

1時間ばかり経っただろうか。
ついに式場へと進むときがきた。













2015年2月17日火曜日

草ノ中のライオン

今日は、黒い人、灰色の人ばかりじゃなく
赤い人、だいだいの人、黄色い人も見た。
なんとなくほっとした。

表現するということについて
考えている。

人に使われるということについて
ちらちらと考えている。

政治ごっこの好きなおじさんに振り回された一日であった。

本人は、組織の中で
競争に勝ち上がり、実績を残し
偉い肩書きも持っている。
自信に満ちている。
あたりまえだろう。

自分の思い通りにすれば、うまくいくと信じている。
おそらくは周囲は、何もわかっていないばか
とまで言わずとも、自分よりできない人だと信じているだろう。

私生活に置き換えても
写真の腕前もほどほどにあるようだ。

だが、写真雑誌に載るような写真が
ジャーナリズムにおいて
伝えるための写真として優れているかといえば
それはまったく別ものなのだ。

ジャーナリズムは言いすぎか。
誌面、とぐらい言っておこうか。

蛙ではないかもしれないが
百獣の王と呼ばれるライオンだって、
地球の上の
ほんの小さな
あるどこか名も無い草原の王様でしかない。

あぁ、藁人形でも打ってやろうか
カミソリ入りの封筒でも送ろうか
それとも匿名で悪い噂でもふきこんでやろうか。

どろどろへどろのような思いに突き上げられ
眠れなかったが
ふと目がさめた。

そこは私が一生しがみつく場所じゃないだろう。

もっとやるべきことをやって生きなさいと。


2015年2月15日日曜日

シーナと掃除機

昨夜はライブ会場にいたのだが
マスターにシーナさんの訃報を告げられ
少なからず動揺してしまった。

もうお会いできないなんて信じられない。

女性ならではの愛情にあふれた方でした。

先に旅立たれた鮎川さん、お嬢さんたちの気持ちも
いかばかりかと思います。
だからなおさら辛い。

そういえば2005年にブルース婦人部が
渋谷のテラプレインで5日間にわたってお手伝いした
ハリケーン・カトリーナの支援ライブにも来ていただきました。

シナロケは、たとえ小さなハコでも
志があれば応えてくださる方々。

ブルースのライヴにもたくさん出演してくださった。

そしてなぜか思い出すのは
マイクを握ったホトケさんが
シーナの方を見やる、うれしそうな顔。

スタイルは違うけど
いつも同じ空気を吸ってきたシーナ。


Facebookのタイムラインにあふれる、いろいろな方との
アフターアワーズの記念写真を見るにつけ
一つも嫌がらず写真に収まった
シーナさんのことを思いました。

気さくな、という印象はそんなところにも表れています。

(以下、Facebookにも載せた文章に加筆しました)

シーナというと掃除機を連想します。
うろ覚えですが、子どもを育てながら
それでも歌うのが好きで好きでたまらなかったシーナは
掃除機をかけながら、ロックをかけ
いや、ロックを部屋に流しながら、掃除機をかけて
ステージに立つ姿を夢見ていたという
そんなエピソードがあったと思います。
演奏ではないけれど
子どもを育てながら、音楽の現場に居続けたいと思っていた私の
背中をぽんぽんと叩いてくれるような話でした。

くらしと共に音楽はある。

最近、とみに強くなるその想いの底には
そんなシーナの姿もありました。

その後、赤ちゃんを親御さんに預け
シーナは東京へと旅立ちます。
この話にも驚いたなあ。

シーナが見えないところで
どんな努力をしてきたのかは知る由もありません。
でもヴォイス・トレーニングより何より
たぶん、歌いたい!と決めたら、すぐマイクを握ったのではないでしょうか。
明日ではなく、今日、今このとき歌いたい。
それがシーナの魅力だったような気がします。
ジロキチ・オン・マイ・マインドに、どうしても入れたかった
シーナ&ロケッツの写真。
満員のジロキチでお客がどんどんステージに迫り
立つ場所が30センチ四方くらいになってしまっても
最前列の男の子の頬をぴちゃぴちゃと叩きながら
楽しそうにシャウトしたシーナ。
この話が大好きでした。

ステージではもちろん
ご近所のよしみで時々、道でお会いしたときも
笑顔だったし、気さくに立ち話してくださった。

ありきたりな表現だけど
愛があふれていました。
愛って、器から、なかなかあふれてこないものでしょう。

私は特別シナロケのライヴに熱心に通ったわけではないけれど
なぜ、こんなに寂しいのだろう。
いつもそこに咲いていた花が
探しても探してもみつからなくなってしまったような
無念さを覚えます。

どうぞ安らかにお休みください。

2015年2月13日金曜日

黒い・茶色い・灰色い

こないだ井の頭線のホームで、下りの急行電車を待っていて
おやと思った。

向かい側のホームで上り電車を待っている人たち
誰もかれも、黒い。

ファンキーじゃないよ。

来てる服が、黒いのだ。

真っ黒ではないとしても、よくてベージュとかグレーとか。

マフラーもまた似たような色。

ふと私の周囲を見ると、これまた
デートらしきカップルにせよ
母に手を引かれた幼い子どもにせよ
ほとんどが黒い、あるいは茶色い。


で、わたしはと言えば

とき色のもこもこコートに、ピンクがかった朱のスヌード、
背中には、ピンクとベージュのコンビリュックを背負って
赤いカートを引いている。
ブーツは茶色。かろうじてベレーがグレーでタイツが黒だ。

まさか、と思い
もう一度見回したが
やはり、黒い、茶色い、灰色い。

私の見ている世界には
いつも赤いもの、桃色のもの、トキ色のもの
黄色というよりイエローのもの、鮮やかなグリーンのものがあふれている。

でも、それは誰にでも見えているわけではないようだ。

電車を降りて
改札を抜ける人をまた意識して眺めたが
やはりほとんどが黒い、茶色い、灰色い。




必死に生きろ!

この世で一番好きなものは
ライヴという場、だなぁ。

としみじみ。

そんな有頂天ツアーのプチお手伝いが終わったと思ったら
あぁ、仕事というより作業だ。
アホな担当からの
理不尽な修正が嵐のように訪れる。

なんでもかんでも、思い通りにしたい。
長 という肩書きの大好きな
周りの見えないおっさん、という種族が確かにいる。

しかし、こんなことをしていていいのか。

とは言え、こんなことをしなければ喰っていけないであろう。

ときどき、アルバイトのサイトをみている。

私に足りないのは、生きていこうとする必死さだ。

何がなんでも生きてやろうとする気持ちが
私には少し足りないような気がする。




2015年2月7日土曜日

今日のパン、明日の家賃

このところ生活費が足りない。

Yくんに少し家に入れてくれるよう頼む。

すると、積み立てているので、できないと言う。

将来のために積み立てているので、
目先のために支払ってしまうと困るのだとい言う。


将来、養ってくれようという気持ちもあるといい
それはそれでうれしいが10年後なぞ、生きているかわからない。

私は今日のパン、明日の家賃に困っているのである。


結局、2万円を渡してくれた。

ありがたい。

少しずつ増えていくほうがいいでしょうと言うので
来月は3万円になるのかと聞くと
そういうわけではないそうだ。

よくわからん。

とりあえず、自分の暮らしは自分で立てていけと
そういうことだろう。

ただし、家を出て行くつもりはないとのこと。

ずっと家で作業していると
誰とも話さないのは寂しいから。

そういうわけで、自分の暮らしはたてつつ
私のあこがれる一人暮らしはまだ遠い。




2015年2月4日水曜日

立春にウォークマン

2月になったと思ったら、もう立春である。

のどがひりひりする気がして
いやいやマスクを引っ張り出した。

マスクは自分の吐いた空気が
自分に直に戻ってくるから嫌いである。

電車で音楽を聞こうと思って
操作したら、イヤフォーンがささってなくて
まわりにだだもれに。

Keb Moで良かったと思うのは私だけだ。

そのとき1.5人分の席に意気揚々と座ってた
若いにいちゃんの横にむりやりお尻をねじこんだところだったので
少し気まずかった。

にいちゃんに気まずい思いをさせてやろうと
そんな考えを起こした私の方がばかだったのか。

おとなしく空いた席に座ればいいものを
なぜか危ない所に飛び込みたがる。

夕方会議。
世の中にはこういう人たちがいるのだなぁ。
いや、こういう人がほとんどなのかなぁ。
といつも思う会議。

政治、権力。あんちろけんろーる。

帰りに品川駅構内で
歴代ウォークマンの展示に見入って少しこころを休める。

初代ウォークマンがみたかったが
男性が一人撮影していたので
さりげに並ぶ。

この初代ウォークマンがほしかったのだ。
それまではラジカセをかついでいくしかなかったのだぞ。
それはそれでラッパーみたいだと思うかもしれないが
音楽を持ち出せるということは革命だった。

最初に買ったのは隣の席に座ってたMちゃんだった。
2人で一緒に聴ける!という仕様に食い付いた。

カレ氏と聞こうがコンセプトにはあったような気もするが
私にはそんな相手などおらず
女の子どうしで共有していた。

2人で聞けて、なにそれ、と今は思うが
あのどうでもいいような機能があったから
ウォークマンだったのだ。

ごてごて、いろんなものがついたスマホとは違うのだ。

2015年1月17日土曜日

1月17日に。

20年前の朝、テレビをつけたときの衝撃は忘れることができません。
すぐに別の部屋にいた家人の元にすっとんでいきました。
当時、義父母は兵庫県内に住んでいたし、
音楽を通じて知り合った方も大勢いた神戸は身近な街だったことも衝撃を大きくしました。

家人はその日に大阪入りするはずでしたが
前の日にこたつに潜って寝たきり、いくらおこしても起きようとしませんでした。
それで私は機嫌をそこねていたのですが
何もかも吹っ飛びました。
あのころは携帯電話も、インターネットのような道具もなく
テレビを観て、おろおろするしかありませんでした。

家人も含め、友人のために、また見知らぬ人のために
奔走した人たちのことも含めて
いろいろなことを思い出します。

それから数年後、山陽電鉄沿いの駅を降りたときに見た
どことなくちぐはぐな光景も私には印象的でした。
テレビでは復興した神戸を紹介することも多くなったころです。
ところどころにぽっかりと生まれた空き地。
まっすぐな道路。建築中のマンション。
昔から地元の人が通っていたであろう商店の間に生まれた、
どこでも見かける真新しいチェーン店。
街が生まれ変わる途中だったのかもしれないし
現状はわかりません。
ただあのとき、復興とは元に戻ることではないんだな、と、
感じたあの感覚は、今もときどき思い出します。

ハバナムーンの夜

吉祥寺のバー「ハバナムーン」へ行く。

スーマーさん、桜井芳樹さんライヴ。

お2人の演奏を聴きたいというのももちろんあったが
ハバナムーンは今月末で閉店する。

マスターの木下さんにもう一度お会いしておきたいという
気持ちがあった。

木下さんは、今後、自分の食べるものは自分で作る暮らしを
してみたいようだ。


先日知ったのだが、マイブラザーと高校の同級生だった。
なんと奇遇な。
弟も覚えていた。
アホな弟は、当時から少し背伸びして
ハーモニカを吹きながら「ガット・マイ・モジョ・ワーキン」なんか
やったりしてたそうだ。
相当偉そうなことも言ったのではないか。


「RCサクセションでもやっていればよかったのに」
と木下さん。

ただ、一つ共通点があるとすれば
2人ともザ・バンドが好きである。
片田舎の高校から
2人もザ・バンド好きが生まれたのだな。

おつまみ、おいしい。

ごぼうと豚肉のみそ煮。
大根の柚子しょうゆ漬け。

焼酎お湯割り2杯。

「お湯を多めにしてください」
って頼んだら
もう割ってあるんだって。
前割ってそういうことか。

というわけで、濃いママ2杯。

じっとライブに聞き入る木下さんの横顔を
ちらりと見る。

弟と同じだけ人生を生きてきたのだなぁ。

しかし同じ高校生だったはずなのに
この横顔になるまでは
どんなことがあったのだろう。

などと、ちょっと酔っているのだろうか。

カウンターで一人、焼酎のお湯割りなぞ
飲むのもよいものだと
生まれて初めて思ったりもした。






2015年1月15日木曜日

ニコジョッキー

恵須川ヒロシさんの、ニコジョッキーに呼んでいただいた。

ニコニコ動画の中にある有料番組枠だ。

「Get's Funky 2525」は隔週水曜日19時~。

他は芸人さんの番組ばかりで
シンガー、エスさんの枠は異質とも言える。

昨年末はもう辞めようと思われたこともあったそうだが
励まされ、音楽を紹介するというモチベーションと共に
継続を決めたとのこと。

社長さんも、音楽、中でも70年代ごろの邦楽がお好きで
ソー・バッド・レビューや泉谷しげる、大上留利子さんらの話で
しばし花が咲く。

スタジオは京王線の笹塚駅から甲州街道を渡って
静かな住宅街を抜けたところにあった。

食品会社のビルの中二階だ。
あとできいたら、ここはスルメの会社だといわれ驚く。
大阪に本社のある、いわゆるおつまみを作っている会社だった。

あ、製作会社はまったく別の会社。
誤解のなきよう。

8畳くらいの楽屋。

ソファ、鏡、誰かの私物を入れた衣装ケースなど。
なぜだかエアロバイクというんだっけ。
自転車を漕ぐ、あの機械が置いてある。

スタジオはその部屋に隣り合う。
入口こそアコーディオンカーテンだが
カメラも2台、あれ、3台かあり、そこここにノートパソコン。

オープニングにbsrの付録CDからデニス・ラ・サールをかけてくれた。

軽口を叩きながらの進行だが
そこが気楽に音楽を楽しめる感じでまた楽しい。

レコード・コンサートのような番組もあっていいが
親しみを持てるようなプログラムもまた必要だろう。

くらしの中に音楽を。

私は図々しくいろいろおしゃべりしてきたが
肝心の「ジロキチ・オン・マイ・マインド」の宣伝部分は
話したいことの半分も話せなかった気がする。

それにしても
こういうメディア、表に開いた空間を持っていることが
うらやましい。

共演のドラゴン藤原くんが
ブルース・マーケットで勉強させてもらいました
と言ってくださったのはうれしかった。

発信する場を持たなきゃだな。





2015年1月13日火曜日

Worry Worry

仕事でトラブルゥ。

言い訳じみたことを口にしてしまい反省。

自分の非を非として素直に認めたい。

いや、それは納得した場合だな。

この場合はスマートなクレーム対応ってやつか。

そのうえ、間に入っている担当者の
脳天気ぶりにいらだつ。

大丈夫だよ の一言が、不安に輪をかける
口先だけの人っているんだよ。

林明子さんの『こんとあき』では
きつねのこんが、幼いあきちゃんに
だいじょうぶ、だいじょうぶ
と声をかける。
それだけで胸が熱くなったものだが。

Yくんは、39度の熱を出す。

インフルエンザではないようだ。

トラブルが解決しないまま
スーパーへと、修理したての自転車を走らす。

夜9時過ぎの、人もまばらなスーパー。
Yくんが食べたいという、豆腐と、野菜、うどん。
寝転がっていても食べられる、いなりずし。
自分にはタイカレー。

ATMに寄って残高を確認したら
予想以上に少なくて、たじろいだ。

また夜道を自転車。

てぶくろをするほどではない。

気分をかえて次回のbsrのお題について考える。

面白いお題をいただいたのだ。

結構自由な裁量があるので
何をどう書こうか、いろいろ思いめぐらせる。



2015年1月11日日曜日

チェーンが切れた

連休は、3つ隣の駅まで
Yくんと、靴のかかとを修理しにいく。


Yくんのは輸入モノの、先の尖った革靴。
修理代 2000円。
私のは4900円のブーツ。
修理代 1200円。

不安そうなおじさんが窓口だったので
なんだか私も不安になった。

その前の日は
自転車のチェーン修理。

ふんふんふふーんと自転車を漕いでいたら
がっがががと音がして
一つもペダルが踏めなくなったのだ。

チェーンが切れてぶら下がっていた。

いつもの自転車屋さんに行く。

年末に荷物ひもがチェーンにからまって
泥よけを修理してもらったので
これで2度目だ。

「こないだ直していただいてばかりで」
と言うと、おじさんは「そうだねえ」と覚えていた。

こちらはのおじさんからは
絶対に信頼が持てるという
プロのオーラがただよってくる。

「強くぶつけたりしないと、チェーンが切れるなんて
めったにないんですよ」

しかし、ふふふ~んと乗っていただけなのだ。
すみません、とあやまる。

修理費は1500円だった。
預けておくといつも空気もぱんぱんに入れてくれる。
先日の修理費が2000円だから
そのうち新しい自転車が買えるのではないか。




靴の修理の方は翌日受取になったため
2日連続で3つ隣の駅へ。

そして2日連続でケバブを食べた。
近所にあったケバブ屋さんがひっこしたのだ。
トルコから来た若いAくんと
「ゲンキだった?」
と世間話。

いつものケバブサンド500円、とケバブ弁当600円。
ソースは辛口+ヨーグルト。

しかしゆっくり話したくても次々とお客さん。
こちらは商店街に面しているため
忙しくて痩せたそうだ。
朝10時から夜10時まで働きっぱなしである。

トルコに帰ると
兵役にとられてしまうらしい。
徴兵制のある国では
義務なので1年我慢して行ってくればと考える人もいるようだが
現在、トルコの周辺はかなり厳しい状況にある。

徴兵制は通過儀礼ではないのだと
恥ずかしながら、彼と話していて初めて気づいた。





2015年1月10日土曜日

オーティス・クレイのライヴ盤

仕事場から20分ほど歩いて、世田谷線に乗った。

道すがら、オーティス・クレイ・ライヴを聞きながら。

やはりリハーサルからオープニングのところ。

何度聞いてもぞくぞくする。
赤い血が猛烈に身体をかけあがって
青い血に変わるような思い。

クレイ、バンドのみずみずしさもさることながら
お客さんの反応一つひとつが、とても素直だ。

ライヴ盤と銘打って、MCは入っているのに
客席の声が小さい、あるいはほとんど聞こえない。
あれはいただけない。

ステージ、観客、スタッフそろってこそ、三位一体でのライヴ。

O.V.ライトのピンチヒッターできたクレイにとまどいはあっただろう。
そして本当はO.V.を待っていたはずのお客さんには、
それほど期待していなかった人もいたはずだ。

そんなスリルもまたこのライヴには
潤滑油として左右した。

私自身、このライヴは見ていないのだが
高校から大学にかけて本当によく聞いた1枚だ。

家にあるレコードは、針飛びしている。

大学のサークルには、このライヴをMC含めアタマから完コピしている人たちがいた。

日本語詞も傑作だったなぁ。

浅川マキは“Trying Live  Life Without you”を
「あなたなしで」という日本語詞で歌っているけど
それに負けないくらいよかった。

しかし、そうした思い出を差し引いても
ソウル・ミュージックのエネルギーにあふれるスーパー・ショウ。
負の部分をまったく感じさせないアルバム。

当時を知る人たちの記念品で
終わらせてしまうのは、つくづくもったいない。



2015年1月8日木曜日

スヌード をまとう

前から欲しかったスヌードを買った。

ディスプレイされていたときぱっと目に入った色。
鮮やかな緑と迷ったが
海棠色のような赤系に決めた。

30%オフで、2千いくらだった。

決して余計なものをふんだんに買える経済状況にははないが
少し自分を甘やかした。

待ちきれなくて建物の影で
袋から出した。

しまった。
平らにたたまれているのか。

スヌードは、つまり少々しゃれたネックウォーマーだ。
マフラーと異なり
輪っかになっているので
首にかけて二重巻きにすれば
不器用な私でも、それなりに形がつく。

いや、つくはずだ。

そう思って買ったのに
あのディスプレイのように巻けないであろうと
残念な気持ちになった。

しかし、身に付けたい気持ちには変わらない。

持ち歩いている折りたたみのハサミで
タグをはずした。

鏡もないし、どうしたらいいのかわからないので
とりあえず首にかけぐるぐる巻き付ける。

とんでもない格好で歩いているような気がする。

道行く人に見られているような気がする。

家に帰ってスヌードの巻き方を調べたが
どうもよくわからなかった。

鏡を見て
ずきんのようにかぶってみたり
斜めに垂らしてみたり。
あぁ、これは変身グッズでもあるのだな。

スヌード(Snood)が
スコットランドなどで未婚女性が付けたヘアバンドから来ていることも初めて知る。
正確には垂れ下がった後ろの髪を入れるネットだったようだ。
未婚女性というからには、つまり処女の証であろう・
http://www.ebay.com/itm/Vintage-Crochet-PATTERN-to-make-Petal-Snood-Headband-Hair-Band-Net-/140341742736

これはこれで、おしゃれだ。

さらにそれが、耳の長い犬が食事などの時に
汚れないように付けるバンドになったという。

http://pixgood.com/dog-snood.html


うーん。スヌードがない時代は汚れ放題だったということか。
放題の場合、犬自身で解決する術はもたなかったのだろうか。

そして私である。

ぐるぐると巻き付けることだけしかできない
能のなさとは言え、
とりあえずはお気に入りの色でもある。

髪をしまうでなく、耳をしまうでなく
ただただ楽しみのために身にまとう。
しまいこんだ私を見てもらうために身にまとう。






2015年1月7日水曜日

両A面 人生は

朝。

着替えて、いつものようにヨーグルト、キウイ1つ、グラノーラを食べ
今日はほうじ茶を飲む。

余ったほうじ茶をボトルに詰めて持っていこうとしたが
キャップがみつからない。

みつからないまま、
パソコンで天気予報を見たり
調子の悪いiPadのUSBケーブルを探したりする。

するとアマゾンに安価でよさそうなものがあったので
注文する。

あれやこれや、歯を磨きながらふと洗面台の時計を見ると
いつも乗る電車の発車時刻だ。

つまり遅刻である。

これを正月ぼけというのだろうか。

しかし、途中乗換でちょっとだけ小走りに
階段を乗り換えただけで、いつもより3分ほど遅れただけで済む。

電車の中吊り。

「両A面人生」とある。

いや~思わぬ名曲はB面の方が多いものだよ。

両A面で売り出すこともあるけどさ、
そもそもは主役のA面に、脇役のB面。

ちょっと影に沈むB面という立ち位置の悲哀があるんじゃない。

さらによく見ると
「人生、夢だらけ」
とも。

なんだか息がきれそうだ。

かんぽ の広告だった。

打合せを終えたら
路上で、ある宗教のアンケートのおばさんに声をかけられた。

アンケート用紙に宗教団体の名前があったので
それとわかったのだ。

どんなことを尋ねるのか少々興味があるので
「宗教には興味ないですよ」と断って立ち話。

最終的に講演会に来てもらったりするのが目的なので
どの質問もたいがいなのだが
「お金と時間があったら何をしたいですか」
とは、なんとざっくりした問いかけだろうか。

意に沿わない仕事をやめる。

いろんな意味で、遊んで暮らす。

ただそれだけだ。







2015年1月6日火曜日

新しい年

あけましておめでとうございます。

旧年中はお世話になりました。

本年もよろしくお願い申し上げます。

今年こそは、という区切りも変ですが

ブログもぼちぼち書いていこうと思います。

年末年始は休み明けまでの仕事もなく、
久しぶりに実家で4日間。

妹夫婦が元旦から伊勢参りにでかけたため
齢八十を超えた母と、いまだ独り者の弟と
所在ない私のみ。
スーパーで2000円ほどのお刺身のお造りを頼んだほかは
おせちも小さく小さくなりました。

大晦日に、全日注文したお造りをスーパーに取りに行く。
「昨日、お刺身をお願いした●●ですけど」と
売り場にいた
ひょろひょろと背の高い白い作業衣の青年に声をかける。

あ、はい。と奥に行き、楕円の皿に載ったお造りをもってきたが
頼んだはずの、マグロのさくはない。

「あら、マグロもお願いしたんですけど」
と首をかしげると
そこにありますから、と魚売り場のケースを指さす。

あるには、あるけど、頼んだやつじゃないでしょ。

まあいいけど、こういとき
「お切りしましょうか」
とか、そういう気はまわらないんだねえ。

私も父親に気がきかないとよく怒られたものではあるが。


こたつの各々のポジションに足を突っ込み
身体を小さく折ってしばし横になって目をつむっていると
時計の針の音と、庭のりんごをついばみにきた
ヒヨドリの声だけが聞こえます。

そういえば、昔はにぎやかだった
子どもたちの声もすっかりしなくなりました。

こうしてだんだん家は老いていくのでしょう。

それでも日頃は老母としか会話のない弟が
車の中で「何、きく?」
と言いながらボビーブランドやジュニア・パーカーをかけたり
2日に私の息子が来たときに
楽しそうに電気の話をする様子に
少しほっとしたものです。

息子Yくんが作った音楽ゲームにiPadで挑戦する母。
こたつのテーブルを片手で叩いてリズムをとりながら
アドバイスを送るYくん。

2つ★しか獲れなかったのに
その結果、4★になったときの母のうれしそうな顔。

ゲームもいいものだねえ。

家にとらわれるわたし。
家に守られているわたし。

ドメスティックな話題をSNSにあげるのは
なんとなく気が引けたのだが
あげてしまった。

少し後悔している。