2013年12月21日土曜日

肉豆腐

12月の雨なぞ、すぐ上がると思いきや
本日も雨。ばらばら、がらがらと音がするので
表を見たら、ひょうが降っていた。
大手町では初雪だそうである。

氷河期に向かっているというのは、本当なのではないだろうか。
いや日本、世界そのものが
いろいろな意味で、どんどんよくない方に向かっているのは
間違いないのだろう。

少なくとも、ウィアザワールドじゃないよなぁ。

先日も先輩に
「放っておいたらギターなんかじゃらじゃら弾いていられなくなる」
「次の選挙なんて言ってられない」
と言われた。そう思う。

というより先に、仕事が知事選の影響を受けている。

それはそうと。
ぼちぼち仕事。
すでに休みムードの人もあり。

たまには夕飯をしっかりとろうと
夜8時前、スーパーまで自転車を飛ばしてみた。

豆腐、白菜、納豆売り場は、こんな時間に、ほとんどカラである。

そうか、連休だ。鍋をするんだ。

私は、すき焼きが食べたくなったが
Yくんは、ぐーすか寝ているようだし
独りでやってもつまらないので
肉豆腐とすることにした。

ほかに、Yくんのリクエストで、魚も。
ぶりの照り焼きにしたかったが
高いので、メカジキ。ガーリック焼き。

セロリも買う。

肉豆腐は、昔、実家にいるころに作って
母に褒められた覚えがある。
私は、結婚するまで、ほとんど家事らしい家事をしていなかったのだ。

結婚当初は、はりきって
中華鍋で、かれいをあげてあんかけにしたり
一日かけて塊肉を紅茶煮にしたり
母に分けてもらったぬか床で、ぬか漬けもやっていた。

仕事柄、いろんな人が家にやってきたので
台所、つまりは裏をどろどろ、がちゃがちゃにしながらも
もてなしたりした。

今もおつきあいのある方、
あるいは亡くなったあの方、
私の料理を召し上がっていただき、ありがとうございました。

その後、紆余曲折あり
家に人が来ることもなくなり
あまり料理をしなくなったが
自分の好きなものだけは食べていたいと思う。

ずいぶん勝手をしたが
息子も餓死することなく
ここまで生きてきた。

ある意味、どんなに勝手をしてもいいが
子どもを飢えさせてはならない。
他にもいろいろあるにはあるが、
親としてそれだけは守らなければなるまい。

そんなことを考えつつ、台所に立ち
さま○○ずLIVEのDVDを観ながら、ごはんを食べた。

私はコントや落語、演芸が好きで
知っている人は知っているが
さま○○ずLIVEにも足を運んできた。
友だちも何人もできたのだった。

ここ数年は、あれほど楽しみにしていたLIVEも
もう一つで今年は行かなかったのだが
これを見る限り、コントに往年のハリが戻ってきた感じがする。

私は、人を喜ばせたり
笑わせたり
踊らせたり
そういうことに一所懸命な人たちが
とにかく大好きだ。

















2013年12月20日金曜日

12月の雨の日

小雨の中、取材へ。
あがるかと思えば、
夕方になっても、しょぼしょぼと降り続く塩梅。

12月の雨の日、はっぴいえんど。
半音で移動していくコード進行が好きで
あればっかり弾いてたことがある。


今日は工場の取材。

クライアントさんが、車を出してくれたので助かる。

売上げはほしいし
時間もほしい。
でも、ものをつくるのがすき。
ものを創るために考えるのがすき。

ものづくりはアナログだ。

それは、稼業をついでる実弟をみていてもわかる。

今日は撮影係兼任。
社長さんが
「私もカメラをやりたかったんだよ」
と、おっしゃり
あらら、と少々緊張。

D門拳さんのところで
暗室作業からみっちり勉強されたらしい。

帰りに下北沢へ。

商店街にも、毒々しい看板を掲げるチェーン店ばかりが増えてしまい
“あのころ”のシモキタは、もうない。

もうシモキタなんて・・・と思うところがないではなかった。

でも、やっぱりここはホームタウンだなぁ。
通りをゆく歩幅でまちのスケールをとらえられる感覚。
本能で角を曲がって、目的地へゆける感覚。

なんたって生まれたまちより、育ったまちより
長く暮らした所である。

事件の報道を観たこともあり
久々にO将のギョウザを買って帰る。




2013年12月19日木曜日

ごみ置き場の隣

昨日から小雨模様。

今にもどどどっと機嫌の悪さをぶちまけたいような空。

雪に変わるとの予想もあったが
どうやら雨雲として踏ん張ったようだ。

仕事をしていても指先が冷たくなる。

これはかなり気温の下がっている証だ。

ネットラジオ からバリー・ホワイトの低音が聞こえる。

借りているマンションの部屋は温かい。
たぶん、サッシが片側にしかなく、風とおりが悪いからなのだろう。
ぬくぬくとしながら、部屋の外へ出て
寒さに愕然とすることもある。

加えて、私の部屋の北側は、ごみ置き場である。
それで北からの冷気を遮っているということもあるのだろう。

借りてしばらくしてから、そうか。と気づいた。

つまり本棚と壁一枚隔てて向こうは、ごみ置き場である。

気づいたとき、あぁいやだ、いやだ、と逃げ出したくなる人もいるかもしれない。
あぁ、いやぁ~、そうなのかと考えたこともあったが
ごみが山積みというわけでもない。

夜、ごみを置きにいくと、電灯もないコンクリートの空間には
格子のはまった小さな窓から
夜の光がさしこんでいる。

青いポリバケツが黙って並ぶ、ごみ置き場は孤独だ。

風通しのいい部屋に住みたいけれど
ごみ置き場に守られていると思えばよい。

昼ごろまでは、
冷蔵庫のくず野菜を炒めてのせた
味噌ラーメンを作ったりもして、ゆるゆる仕事。


午後から加速度的に忙しさは増し
最後のデザイナーさんからデータをもらったときは
零時を回っていた。

こんな日は、ぜ~~ったいライヴになど行けぬ。

たまに一緒に仕事している人にも
愚痴めいたことを言い
同時にデザイナーとしてのプライドを傷つけるようなことを
口にしてしまうことがある。
気をつけよう。

データを待っている間
憂歌団をYou Tubeで観た。
「胸が痛い」を聞きたかったのだが
いろいろ。
熱くなると、4人のリズム感が、はずんでいる。






2013年12月18日水曜日

憂歌団からの便り。~島田和夫祭り~

16日月曜日。

憂歌団からの便り。~島田和夫祭り~ を観るため赤坂Britzへ。

大阪公演が決まったとき、行く!と勇んだが
結局チケットがとれずに涙をのんでいたのだ。

なのに、ずいぶん前に買っただけで安心し、あやうく失念するところであった。

TBSのところに着くと、
ユウカダンのチケットをお持ちの方、こちらからご入場できます~
と呼び込んでいる。

やっぱり、今日は憂歌団なんだ。

複雑なような、うれしいような。

メンバーの顔、Hまろさんの顔、T井さん・・・
彼らに関わってきたいろいろな方の
顔が浮かぶ。

4人のイラストパネルがどーんと飾られている。
イラストは、もちろん4人いる。

CDや、さまざまなグッズも売っている。
Tシャツの色が白、黒のベタなタイプばかりでないのが、しゃれた憂歌団らしいなぁ。
憂の字がデザインされた赤いトートバッグと
パンフレットを求める。
パンフはLPサイズ。原点に戻ろうとの思いだろうか。

いつもなら始まるまで
パンフでも読んで・・・となるところだが
表紙の4人そろった写真をちらっとみたら
開くのがもったいなくて、バッグにしまってしまった。

T子さんが、Britzでのライヴは
アイズレー(ブラザーズ)立ち見以来だと言ってたが
今日は、簡易な椅子だが、ちゃんと席がある。
隣に座った大柄な男性、ちょっと窮屈そうだ。

見回すと、特に憂歌団と同世代が多いというわけでもない。
女性グループも何組かいて、彼らの幅広いファン層を感じる。

年齢の世代というより
同じ時代を生きてきた人たち、ということだろう。


最初に新井田耕造さん中心のドラマーズ。
ブルーハーツの梶原徹也さん、三宅伸治バンドの杉山章二丸さん
ジュンスカイウォーカーズの小林雅之さん、プリプリの高田京子さん
ドラム5人がステージに並ぶ。みんなグレッジ。

乱れ打ちというのではないな。
ユニゾンのようにたたき出されるビート。
島田さんへの鎮魂だ。

リズムをとりながら少し熱いものがこみあげる。


島田さんに最後にお会いしたのは一昨年夏の大阪だった。
会釈された、はにかんだようなやわらかな笑顔を思い出す。
リハのためセッティング中の島田さんは、年齢をとったようにもみえず
飄々としていらした。
その日は、勘太郎さんにもお会いしたし
次の日にはHまろさんにもお会いしてお話をうかがった。
今思えば、少し特別な大阪だった。

クリーム“I'm So Glad”が流れる中、舞台転換。

憂の字を大きく○で囲った
ボードがするするとおりてくる。

こんな大きな「憂い」って文字、みたことない。

3人が、いつもの感じで出てくる。

大歓声。

待ってました!とばかりに客席から、チャチャが入る。

勘太郎さんが、音合わせにギターをじゃらんと。
空気が変わる。
すごいなぁ。

確かfine and mellow からスタート。
憂歌団の英語詞といえば・・・と、
今度はちょっと拾得のテリーさんの
ことを思い出す。

ミッドナイトドリンカーで手拍子。
日本一の宴会バンド、憂歌団! だ。

でも、やっぱりドラムスがないと
曲によって違和感を覚える。

私じゃとんでもなく役不足と思いながらも
いっぱい聞いてきた憂歌団だからと
頭の中でブラシを加えて。

1曲ごとに
「タバコ吸ってもええか」
と花岡さん。
じゃ、オレもと木村さん。お酒?もぐいぐい飲む。

それに対しニュートラルな勘太郎さん。

あの寡黙で壊そうな内田勘太郎ではなく
よくしゃべる、勘太郎さん。
ソロ・ライヴを観ていればなんとなく知っている人は多いはずだけど。

曲間にぱらぱらと弾くフレーズに
ソロになってからのフレーズを思い出すものあり。

体調を崩されていた花岡さんは
決して本調子ではなさそうだ。
その分ということか、木村さんと勘太郎さんが引っ張る。


この会場に来ているお客さん。
何を待っているんだろうか。
往年の憂歌団?
それとも新しい憂歌団?

私は、これは新たなスタートなんだと感じた。

君といつまでも のセリフ
「ぼかぁ、死ぬまで歌い続けるぞ~!」
が、ずしんとくる。

後半、ドラマーズの面々が
一曲ずつ交替で島田さんのドラムを叩く。

しまだ~~! 会場から声がかかる。

島田さん、どこ行ってしまったん。
シャッフル聞きたいよ。
ちょい私も天井を仰いだりして。


意外によかったのが、京子さんドラムでの
Hoochie Coochie Man。
ドラムがシンプルな分、ハマッたのだろう。
勘太郎さんのスライドもマディ・テイストでかっこよい。


タバコ吸って、お酒飲んで
だらだらやってるようで
「胸が痛い」あたりから、ぐわしと会場をつかみとって
ぐんぐん持っていくあたりは、さすが、だった。

「胸が痛い」で号泣したことあったな。

一方で木村さんのソロでも聞ける歌だけに
憂歌団ならではの「胸が痛い」ってなんだろうと考えたりもした。

それはやっぱり、ベースとドラムスだ。

「嫌んなった」もだけど、誰が叩いてもやっぱり
あの「嫌んなった」にはならない。

いくら木村さんのキャラクターが強力で歌が素晴らしくても
勘太郎さんのスライドが唸っても
やっぱり、花岡さんのぶんぶんと重いベースと
島田さんのブラシがあって
初めて憂歌団なのである。

4人そろって憂歌団。

代わりはいない。

そしてそのことはおそらく3人が一番よく知っているのだろう。

だからこそ、今日から新たなスタートなのである。

元気なんかないわ、と うそぶく花岡さんに
「みんなで一緒にやろうや」
と声を掛けてる人があって
ちょっとぐっときた。

みんな彼らと一緒に生きていきたいのだ。

3月には木村&勘太郎による憂歌兄弟で
ニューアルバムも予定されているとか。

今から、楽しみでしかない。




2013年12月16日月曜日

サンタからの袋

土日も仕事ばかり。
年内に仕上げなければならない。

少しばかりはかどったが、なんだか何かが足りないと思う。

近所の商店街はとたんにクリスマス・ソングを
にぎやかに流し始めた。

しかし、このメロディ。
これは教授の「戦場のメリークリスマス」だろう。

なんか違う。なんか違うぞ。

ラジオもぼちぼちクリスマス仕様の選曲だ。

この時期、やっぱりClassic Soul Networkが沁みる。

イブの夜、独り、部屋で
クリスマスソングに耳を傾けるという習慣は
20歳くらいのころから、変わらない。

冬の夜、この淋しさ、わびしさに耽溺する感じ。

嫌いではないのである。

いじけているんだろうと言う人もおりましょうが。

◆ ◆ ◆

家には、ビング・クロスビーの『クリスマス・アルバム』があった。
中学生のころは、大瀧さんのジャケ裏に同じものを見つけ
おおっと、あたかも同じコレクションを手にしたような思いがしたものだ。

子どものころは、雑居ビル4階の
台所こみ6~8畳一間ほどの洋間2部屋を借りて6人で住んでいた。
2部屋は、共用廊下をはさみ、はす向かいにあったが、
クリスマスになると、その一部屋を赤、緑、黄などの豆電球がついた
ささやかなイルミネーションで飾るのだ。

そしてクリスマスのレコード、ビング・クロスビーなんかもかけたと思う。

メインイベントはやはりプレゼントだ。

夜になると、親がやおら流しの脇の窓をあける。

部屋には窓が一つしかなかった。少しさびついた鉄枠の窓。

外には白い大きな袋がぶら下がっていた。
「サンタさんだ!」

両親がスグ上の屋上からぶら下げたのである。

粋なはからいであった。
両親が相談し、子どもたちのために準備したであろう姿を思うと
いま、少し涙が出る。

白い大きな袋には、きょうだい3人の欲しかったおもちゃが入っていた。
私がほしかったのは、リカちゃん人形の服などだったと思う。
薬局の友人が持っていた食器セットなどや、ワタルくん、いずみちゃんは、
とうとう買ってもらえなかった。

彼女はお金持ちだったのである。
遊びに行ったとき、2階にトイレが有り驚いた。
初めて洋式トイレなるものを見たのも彼女の家だった。
私は、イラスト入りで書かれた
洋式トイレの使い方という注意書きをまじまじと読んだ。

だいたい彼女の家は、いい匂いがした。
薬局という看板の元、資生堂などの化粧品も扱っていたからだろう。

お店を通って、ダンボールの積んである倉庫のようなところを抜け
2階にあがっていくのが好きだった。
通っている小学校は違うのに
駅の向こうにある家までよく遊びに行った。

本人も透明感のある美人さんであった。

子ども同士でも、この子は美人だと、小さいころからなんとなく感じるものだ。

幼稚園から小学校にかけ仲のよかった友だちの顔は
いまでも、あのころのままに思い出す。

魚屋のTちゃんは、気持ちのよい子だった。
リカちゃんハウスを持ってよく行き来したが、家はいつも魚くさかった。
母親が忙しいとかで、おばあちゃんと住んでいた頭脳明晰だったKちゃん、
双子のRちゃん。駅に近いマンションに住んでいた同じ名前のU木さん。

皆、齢五十の顔になったんだなぁ。どうしているのだろう。

自分で家族を持っていたときも
それぞれの職業柄、家でクリスマスを祝った思い出はあまりない。
そのうえ、息子どのは12月23日生まれときている。
何かとややこしいのである。

そんな彼に、今年誕生日、どうする?と聞いたら
「うーん・・・シャンパンでも飲みますか。特に欲しいものはないなぁ」
だと。

飲めないのに。

そしてまたコルクが空かず、
2人して瓶をのぞきこみ、難儀するのは眼に見えているのに。
シャンメリーにしとくかい。