2011年1月18日火曜日

ミッティ・コリアのゴスペル

渋谷にて、30年来音楽関係でお世話になっているKさんとお会いした。
学生のころから可愛がっていただき
私の悪いところも、悪いこともよくご存じのはずの方である。
(今もって善いところとは言えないのである)

発売を準備している(パスター)ミッティ・コリアの
ゴスペルCDの音源をいただき
ランチを食べながら、あれこれ話す。

私の口から出るアイディアは
昔から変わっていないような気がする。
でもあえて言うなら、少しだけ
自分の実感に自信が持てるようになった。
いや、年齢を重ねた分、それにしがみついているのか。
そうだとしたら、気をつけなきゃ。

   リアルなものに逢いたい。

これが、今の気分だと思う。

小さい子でも、テレビにはプロデューサーがいて、スポンサーがいて
仕掛け人がいると知っている時代。
歌声を簡単にデジタル処理できる時代。
整形の時代。

電源引っ張ってアンプを通さなくても
ストリートで歌は歌える。
キャディラック・レコードでエレキに目覚めたマディの例とは逆に
それでも喧噪を打ち破るような歌声はあると思う。
いや、絶対ある。

帰ってCDを聴いた。
若人のような弾けるような声ではないけれど
何か歌うことを覚悟しているような歌声だ。
CD(DVDもという話)楽しみである。

はぁ~と肩の荷をおろしたいとき
やっちまった~! と落ち込んだとき
ゴスペルを聴くと、自浄作用の働きが高まるのがわかる。
めちゃくちゃに振れていたメーターのハリが
少しずつ元に戻っていく感覚を味わうことがある。
ジーザスは見えない。それだけはごめんなさい。
それでも不思議な音楽である、ゴスペル。

最近アップされたシカゴにある自分の教会でのミッティ・コリアの映像があった。
前半は説教だけど、一度ご覧ください。

わが心のカナリア諸島

発売されたころは、大瀧さんの『ロングバケーション』が
あまり好きになれなかった。

あのころ、ブルースに夢中だった、というだけじゃない。
軽い、というのか心地よすぎて
しっくりこなかったのである。

さすがに最近は楽しんで聴いているけれど
でも今日はじめて、あぁこういうことかと気づく瞬間があった。

それも電車が江戸川や荒川を渡るとき。
都会にしては少しばかり広い空と、
きらきらきらきら冬の太陽にきらめく川面と、
高速道路と。
その時、ヘッドフォンから聞こえていたのは「カナリア諸島にて」だった。
南洋の楽園とは似ても似つかない光景なのだけれど
私には、遠い楽園が束の間見えた気がしたのだ。

手の届かない楽園だ。
ぼくはぼくの岸辺で生きていく、それだけという言葉が
いつになく、心の中にさわさわーっと広がってせつなくなった。

当時、この曲はシングルのB面。A面は「君は天然色」だった。
思い出はモノクローム。
色をつけるのは結局自分。